高校の部活のバーベキューの帰り、藤沢に帰ってきた頃だった。
人生で初めて、新聞の号外なんてものをもらった。内容は全く明るいものではなかったが。
簡単に言えば、秋葉原でキチガイが一騒動を起こして7人を殺した、ということだ。
まずは何よりも愕然とした。
7人、という数字があまりに常軌を逸していて、最初のうちは意味がわからなかった。キチガイとはいえ、人間一人がそんなに多くの命を奪えるものなのか、奪わせて良いものなのか。
一瞬にしていくつもの人生を奪った人間が、今僕がこうやってこの記事を書いている間にも、身の安全を保証されたままふてぶてしく生き続けて良いものなのか。それと何より、死んだ人は、死なれた人は、どうなるのか
そこまで秋葉原には詳しいものではないが、何しろ電化の秋葉原。僕だって何回かは行ったこととがあるし、事件が有った交差点もよく覚えているし、ソフマップ、サトームセン、なんて店もどこにあるかがわかる。
そこで、今回これが起きた。
日曜の昼間、僕だって誰だって、秋葉原に居ておかしくない時間だ。もちろんその7人のうち、死のうとしてそこに来ていた人は誰もいないだろう。「ちょっと出かけてくる」「すぐ帰る」そんなことを言ったまま永遠に帰ってこなくなった人ばかりではないのか
つまり、僕が普通に行動する時間、予備校と家を往復するような時間に、何が起こってもおかしくないのだ。もしかしたら次に同じような事件が起きたとき、死ぬのは僕なのかもしれない。昨日の夜、布団に入ってそんなことを考えると、ぞっとすると同時に、それを運命/不運と言うしかない現実が理不尽で仕方がなかった。
もし自分が急に死んだら。親と玄関先で別れを告げて、二度と帰ってこなかったら。そんなことをたまに考える。
でも今回は、より深く考えさせられた。起こりうる場所、起こりうる時間の話なので、妙に現実味を帯びているから。
死んだ方は運命だったで済ませるしかないし、それで良いかもしれない、というかそう言うしかない。しかし、悲しむのを、恨むのを、悔やむのを、全て残された家族や数少ない友人や…、そんな人たちに任せるなんて僕にはできない
夜道を歩く足取りが、前にも増して警戒強くなったが、警戒していただけで防げるものなのか。そんなことを考えながら今日も帰宅してきた。
今回は本気で、拷問という刑罰を取り入れるべきではないのかと本気で考えた。先にも書いたが、あんな事件を起こして人間が、同じ国の中で、ひょうひょうと生きている事が憎たらしくてならない
さらに腹が立つのは、「アニメやゲームが悪い」だの「犯行に使われたナイフは某のゲームで使われている」だの、完全に頭に虫が湧いているとしか思えない的外れな、単なるプロパガンダに等しい報道をするゴミども。
法務大臣が「相当の報いを受けろ」といった内容の発言をしたことには少し感心したが。どうせ利権ばかりで動く役人はあてにできない
この年になってくると(ようやく)自分の性格がわかってくるもので、行動を起こすごとに「そうか・・・自分はこういう人間だった」なんて思うことがよくある
これこそ自己満の極みではあるけど、少し書いてみようと思う。
一番根本になっているのは、基本的に食わず嫌いで好きなことしかやらないところ。学校でも勉強でも部活でも生活でも予備校でも、それに基づいて動いてる。
無意識とはいえ、そういう事をするのには何かしら理由があるわけで、たぶん倫理観とか人生の意義とかこれまでの生活環境とか面倒なところにつながってくるのだと思う。
そもそも、僕は楽しいことが好きだ。何かつらいことをするとしても、それが直接自分が楽しめる事につながっていないとしたら一気に意欲が下がる。それではじめに書いたやりたいことしかやらないなんて状況ができてくる。
それと関係があるのかはわからないが、少し考えていることがある。
人間はいずれ死ぬ事になっている。何しろ死亡率は100パーセントだから。どんなに尊敬している人間も、親とか親戚も、最終的には自分も。それをどうとらえるかは自由だが(なので僕は好きなことを言わせてもらう)、いずれ死ぬなら、人生が一度しかないのなら、できるだけ楽しんでおきたい。生きていて良かったと思えるような人生にしたいし、そのような事を味わえてこそ人生に意味が出てくるのではないか。
人の役に立ちたい、とか言う人がいる。結構だと思う。一生という、人間が生きてきた時間や地球の一生よりはホコリみたいな時間の中で、これは人類の都合かもしれないが、人のためになるようなことをして、自分の生きた痕跡を少しでも残せたら素晴らしいとは思う。しかしニュースになったり、新聞に出たり、名が知れ渡ったり、教科書に載ったりする人間はほんの一部、しかも相当なことをしない限り知り合い以外には知られずに普通の人生を普通に過ごして普通に死んでいく。
もちろん人の役に立つようなものすごいことはしたくない、というわけではない。が、それを人生の意義、転じて人の役に立たない人間は生きている意味がないなんて思うようになったらそれこそ人生が終わっている。献身的に人の役に立って、他人が喜んでいる姿を見られればそれで満足、という考え方もきっとあるはず。しかし僕は、それよりはずっとエゴイズムに傾いていて、せっかく生きるなら自分の楽しいことをして自分の満足できる人生にしたい、と思っている。
僕が大人になったとして、自分のではなくても子供がいるとして、人生の意味ってなんなの?なんてヘビーな質問をされたとする。そのときどう答えるかは、少しわかってきた気がする
「大人になればわかる」なんてのは、子供のうちはわからない。まだまだ人生経験が足りないんだと言わんばかり。
「人間は死ぬために生きてるんだ」などというと夢をぶちこわしかねない。
今思うのは「それを見つけるためにこれから生きるんだから、今のうちはやりたいことをやりなさい」と言いたい。
大人の言われたとおりに勉強して、ルールを守って、良い大学に行って歳を取っていくのもそれはそれで面白いことは認める。でも理由付けは全て大人任せで、言われたことをやるだけの人生だったら機械に任せた方が良いのではないか。自分は何をしたいのかそれが明確になるまで、人生のどれだけを費やすかわからないが、それがまだわからない、自分の身を委ねられるものがみつからないうちは、しかもまだ若いので、やりたいことをやっていたい。
というわけで浪人して勉強しているのだが、そこのつながりは次回に書くつもり。
性格の話から話が脱線してしまった。なんやかんや言ったものの、結局は目先のやりたいことしか見えていない、人生を長いスパンで見通すことができない偏狭者なのです。まだまだ青い子供です。
もっとここに書きたいけど時間がないな…。日曜は模試が待っております